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リーマンショックと営業活動

前回のお話し  技術の壁 リーマンショックが発生した2008年から2010年までは今まで経験したことがない不況が訪れます。 それまでは自動車関連の試作を中心に仕事をしていましたが、仕事は激減してしまいました。 リーマンショック以前は営業活動をしなくてもお客様から仕事のお話が来ていたため、自分たちから情報発信や積極的な営業活動をしない「 待ちの営業 」でした。その習慣からか仕事がない状態でも営業活動をせず、ただ待つだけの状況が続き、私は焦りを感じました。 ものづくりの仕事がないため、機械のメンテナンスや社内の清掃をして過ごし、仕事が殆どない状況がしばらく続きました。 当時、私は加工現場で仕事をしていましたが、加工の仕事がなかったため営業活動もするようになりました。しかし、営業経験がない私にとって、仕事を受注するきっかけは全く分かりませんでした。 今までお付き合いがあったお客様に会いに行き、何かお手伝いできることがないか聞いて回ったりもしましたが、仕事を依頼されることはありませんでした。 既存取引企業以外にも営業活動を行おうとしましたが、お付き合いのないところへ訪問するのは苦戦しました。どのようなところがお客様になるか分からなかったため、何かきっかけを見つけては色々なところに足を運びましたがそれでも結果につながることはありませんでした。 2009年の年始のことでした。 展示会で知り合った方(商社営業)に年始のご挨拶に行きました。その場ではお会いできず、お年賀のみ置いて帰ったのがきっかけで、数日後にその方から連絡が来ました。 「ご挨拶に来てくれてありがとうございました。気持ちは伝わりました。色々な会社に回るから今度一緒に同行してみませんか?その時なにか営業したいものも持ってきてください。」 営業活動の経験がほとんどない私にとってとてもありがたい言葉で、喜んでご一緒させてもらう事にしました。 当時はプレゼン資料などを作るスキルもなく、自社で製作した成形品をもって一生懸命アピールしました。反応は・・・良くありませんでした。その時は私たちのできる事をアピールすることしかせず、相手が何を求めているのかまで考えられませんでした。お話を聞いてもらう時間を作っていただけただけでもありがたいと感じるほどでした。 一緒に企業を回って気付いたことがありました。 一緒に回ってくださった方は何か

技術の壁

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前回のお話し  2年目の人事問題 入社2年目に技術力のある社員が退職したことは、会社にとっても私にとっても大きな影響を与えました。社内で金型製作に関する技能や知識がある人がいなくなったのです。 私の父は手加工やものづくりへの考え方に関しては非常に優秀で、技術力がありましたが実際に金型を製作することは専門外だったため微調整や勘所まではわかりませんでした。 そこからは書籍を参考にしながら金型設計や加工を行っていきました。古い書籍ほどノウハウや考え方に関する説明が書いてあり最新の書籍よりも重宝しました。 当時最も参考にしていた技術書 金型設計に関わる内容が詳しい 今まで作られた金型も分解してみてどのように作っていたのか観察して参考にしました。 しかし、書籍や既存の金型を観察するだけではうまく作れないものが出てきました。 それが、製品にアンダーカットがある、スライド機構が必要とする金型です。初めて製作したスライド型は、クリアランスや角度についての細かいノウハウがわからず、摺動部分にかじりが生じて動かなくなるなど苦戦しました。 当時、近所には1人や兄弟でやっているベテラン職人がいる金型屋が数件がありました。 その型屋さんに自分の作ったものをもって行き見てもらうようにしました。 最初はなんで他社にノウハウ教えなきゃいけないんだ、仕事の手が止まるから迷惑・・・という感じでしたが何度か会いに行くうちに「ここがだめ」「考え方が違う」など、悪いところを教えてもらえるようになりました。いわゆるダメ出しです。 職人に仕事を「教えてください」とお願いするのは良くないと退職した方と接して感じていたので関係性が築けていない状態では教えを乞うようなことはしませんでした。 当時はどこが悪いのかすら分からないものもあり、悪いところを指摘してもらって直すヒントがもらえただけでもすごく嬉しかったのです。 何度か会いに行くうちに加工の仕方を教えてくれました。教わったことを実践して出来たものを持っていくと、次の課題や応用を教えてくれるようになっていきました。参考になる書籍を譲り受けたりもしました。 本質をついているから読みなさいと譲られた書籍  ベテランの技術者が推薦する本は、自分の経験と照らし合わせて良し悪しを判断したものなので非常に参考になりました。 年に数回会いに行って教わる程度でしたが、技術を教えてく

2年目の人事問題

前回のお話し  ミヨシに入って1年目 入社して1年と3か月で、社内で最も技術力がある課長が辞めました。   辞める理由は独立して型屋を始める事でしたが、辞やめる間際に「どんどん成長するお前を見ていて、自分がこのままで良いのか考えた。このまま続けてお前に抜かれるのが嫌なんだ」と伝えられ、非常にショックを受けました。 その方は社内で最も技術力があり、目標にする人がいなくなること、退職されたら会社の技術力がなくなることでこの先会社はどのようになるのだろうと不安になりました。 この時はまだわかりませんでしたが、今の年齢になって分かったことがあります。 技術職の場合、ある一定の年数を経験すると自分の成長速度が遅くなることに葛藤が生じます。退職した方も何かに挑戦するのであれば40歳前後がラストチャンスだとおっしゃっており、今ではその言葉も理解できます。 私が入った時から独立することは考えていたようで、私に仕事を教えてくれるわけではなく、その人から仕事を頼まれることもほぼなく、決して良い関係ではありませんでしたが、技術面では私にとっては目標にしていた人です。辞めるときには改めて感謝の言葉を伝えました。その先もしばらくは、何か難しいことに挑戦する際は「あの人ならどうするかな」と想像しながら取り組んできました。 さらにその年は、金型技術者がもう一人退職し、金型加工ができる社員は私ともう1人の社員で、2人だけになりました。   当時の代表だった父は社員を増やすために求人サイトのスカウトメールサービスを活用し、 3 名採用しました。スカウトメールには耳障りの良い言葉が並べられ、会社の実情に沿うものではありませんでした。 3 名は私よりも年上で中には一回り上の方もおり、全員が金型業界未経験者でした。業界未経験なため誰かが指導しなければなりません。 父は新しく入った方々にこれから私と一緒に組織を作っていってほしいとお願いし、私の部下にしましたが、その想いと熱意のみで具体的な方針や方策はありませんでした。私は当時加工技術が高くなく、マネジメントもできずにリーダーシップを発揮できなかったため、新しく入った方々から反発を受けることもあり、苦しい日々を送ることになりました。 社員から見れば「経験も浅いし実力がないけど社長の息子だから優遇されている」という認識だったと思います(実際に言われ

ミヨシに入って1年目

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前回のお話し  学生からミヨシに入るまで 入社した当初は、色々覚えて会社を発展させていこうと意気込んでいました。 しかし、入ってから感じたことは社内の人間関係の悪さと、リスクを冒してまで新しいことには挑戦しないという風潮でした。社内の雰囲気の悪さは改善するまでかなりの時間が必要でした。 人間関係については今回は深掘りせず、今回は入社一年目にやったことをお話ししていきます。 当時、金型職人は3人、成形職人が1人、試作職人が3人、事務が1人、営業が1人そしてシステム事業部が2名でした。 私より先に兄がミヨシに入社しておりシステム事業部を設立していました。本業と異なる事業ですが、父は兄弟で力を合わせて会社を発展させてほしいとの思いで兄が専門分野であるシステム事業部を作り、ものづくりとITで事業発展を目指していました。当時は兄がミヨシの社長に、私はサポートにと考えていたようですが、私が入社した翌年には兄はミヨシを去りシステム事業部は解体されました。 私が最初におぼえたのはフライス盤での切削加工でした。フライス盤の使い方は教わりましたが六面出し(すべての面を切削しすべての隣り合うすべての辺同士が直角)のコツは教わらず自分で考えて直角を出すように言われ、何個も失敗しながら1週間かけてのブロックを作成しました。バイスの動き、フライス盤の機構、色々考えて自分なりに答えを導き出しました。 狙った寸法でできあがり、しかも直角の出たアルミのブロックが出来上がった時はとても嬉しくて枕元に置いて寝ました。(今考えると危ないですよね) フライス盤を使って6F加工ができるようになって最初に作ったのは治具でした。 作ったのは台車の取手を取り付ける台座、それと引き出しにしまうノギス固定治具でした。二つとも現場改善のもので、仕事としてお金になるようなものではありませんでした。 ノギス固定治具は引き出しの中のノギス同士がぶつからないようにするためのもので、樹脂を削って貼り合わせました。 ノギス置き場の固定治具 樹脂を貼り合わせた簡単なもの 台座は台車の取手を持って動かすと、取手が外れてしまいそうだったため固定できるように製作したものでした。 台車取手の台座 フライス盤と手仕上げでアルミブロックからの削り出し 売上にはならないものでも、社内環境を改善するものが作れたので、使ってもらっているのを見た時は達成

学生からミヨシに入るまで

前回のお話 「ものづくりと小学生までの環境」   中学、高校と進むにつれて関心はものづくりとは違うところに向いていきました。 高校に入るとスノーボードがしたくて、アルバイトでお金をためて冬になるとスノーボードに行っていました。この頃はまだ仕事として自分のやりたいことも見つけられず、何のために勉強をするのか目的が定められずにいました。 大学に進学し、色々なアルバイトを経験しました。 中でも4年間続けたガソリンスタンドのアルバイトでは様々なことを教わりました。アルバイトを始めたばかりの頃は、わたしの世間知らずな対応から人間関係がうまくいかない時期がありました。そこで、 誰かがやらなければならないけどみんながやりたくない仕事 を率先して行うようにしました。続けていくうちに職場内で「ありがとう」といわれる機会が増え、人間関係が改善していったと感じました。 ガソリンスタンドでは給油だけでなく様々な仕事がありました。窓ふきや洗車などを丁寧に行ったり、車の異変に気付いて声掛けをしてトラブルを未然に防ぐことでお客様から「ありがとう」と感謝されることがありました。仕事を通じて誰かの役に立った時に感謝されることがとても嬉しくやりがいを感じました。 この頃から、仕事をするのであれば、 だれかの役に立つ仕事がしたい と考えるようになりました。 そんな時、大学の授業で環境に関わる講義がありました。エネルギー問題、自然の力を利用した住環境、ごみ問題など。 聴講していくにつれ、私たちの便利な生活にはエネルギーが大量に使われていることや大量のごみが発生していることに気づき、ショックを受けました。 電気など目に見えないエネルギーはどれだけ使っているかその場ではわかりません。 ごみは自治体が処理してくれるので、地域全体でごみをどのくらい出しているのか、最後はどのように処分されているのかは普段の生活のなかでは見る機会がありません。 エネルギー使用量やごみ排出量は1人だけなら少ないかもしれませんが、地球上にいる人間の分だけ発生することを考えると莫大な量になります。 学生時代は内燃機関に興味があったので、ごみを燃焼させてそのエネルギーを電気として回収するサーマルリサイクル事業に関わる仕事をしたいと考えるようになりました。就職活動ではごみ処理プラント事業を行っている会社に応募し造船会社に入社しました。 そこで

ものづくりと小学生までの環境

代表の杉山耕治です ここまで不定期でブログを書いてきましたが少しずつ自己紹介を兼ねて家業を継ぐまでについて書いていきたいと思います。 私は生まれも育ちも葛飾区で3人兄弟の二男として育ちました。 小学生に上がるまでは下町の住宅密集地に住んでおり、仕事場と住居が一緒の場所にある町工場が点在している場所で育ちました。 ブリキのおもちゃを組み立て内職している家をのぞいてみたり、彫刻刀を使って木彫りの欄間を作っている木工所をのぞいたりしていました。その頃は職人さんが黙々と作業をしている姿を見るのが好きでした。 ブリキのおもちゃの内職に至っては、覗いていると失敗したおもちゃをくれたりして、今思えばわざと失敗して私にくれたのかなと思っています。 裕福ではありませんが近所の大人たちみんなが小さな子供を見守ってくれていて恵まれた環境だったと思います。 小学生に上がるタイミングで近所のマンションに引っ越しました。 低学年までは内気で友達もそれほどいなく、住んでいたマンションの前で一人でボール遊びをしていました。 住んでいたマンションの前にはガラス工場がありました。 ボール遊びをしてガラス工場にボールが入った時に見た、ガラス細工職人の仕事姿は印象的でした。 暑い中ねじり鉢巻きを頭に巻き額には汗をかきながら、熱したガラスを棒の先につけて、くるくる回しながら様々な形にしていく。ふにゃふにゃした溶けたガラスをいとも簡単に扱って、器だけでなく取っ手も簡単に取り付ける。集中しながらテキパキと動く姿が格好良く見えました。 ガラスの加工をしている時は炉を熱しているので工場からは「ゴーッ」という大きな音が聞こえました。ガラスの加工をしているタイミングを狙ってわざとボールを入れて見学したりしていました。 わざと入れていつのがバレて怒られはしましたが、「見たかったら見ていいよ」と言ってくれて見学させてくれたのは下町ならではでしょうか。そんなこともあり、小学三年生の時点での将来なりたい職業を書いた文集ではガラス職人になりたいと書いていました。 小学生中学年になると少しずつ友達も増えていきました。 近所で家を建てている場所からでた端材の木材をもらって木工をしてみたり、釘をマンホールの上で金づちで叩いて潰して砥石で仕上げて鋭利な刃物にしてみたり。それを半ズボンのポケットに入れたまま走り回ってポケット破いたり・・・