ものづくりと小学生までの環境

代表の杉山耕治です


ここまで不定期でブログを書いてきましたが少しずつ自己紹介を兼ねて家業を継ぐまでについて書いていきたいと思います。


私は生まれも育ちも葛飾区で3人兄弟の二男として育ちました。

小学生に上がるまでは下町の住宅密集地に住んでおり、仕事場と住居が一緒の場所にある町工場が点在している場所で育ちました。

ブリキのおもちゃを組み立て内職している家をのぞいてみたり、彫刻刀を使って木彫りの欄間を作っている木工所をのぞいたりしていました。その頃は職人さんが黙々と作業をしている姿を見るのが好きでした。

ブリキのおもちゃの内職に至っては、覗いていると失敗したおもちゃをくれたりして、今思えばわざと失敗して私にくれたのかなと思っています。


裕福ではありませんが近所の大人たちみんなが小さな子供を見守ってくれていて恵まれた環境だったと思います。


小学生に上がるタイミングで近所のマンションに引っ越しました。

低学年までは内気で友達もそれほどいなく、住んでいたマンションの前で一人でボール遊びをしていました。
住んでいたマンションの前にはガラス工場がありました。

ボール遊びをしてガラス工場にボールが入った時に見た、ガラス細工職人の仕事姿は印象的でした。

暑い中ねじり鉢巻きを頭に巻き額には汗をかきながら、熱したガラスを棒の先につけて、くるくる回しながら様々な形にしていく。ふにゃふにゃした溶けたガラスをいとも簡単に扱って、器だけでなく取っ手も簡単に取り付ける。集中しながらテキパキと動く姿が格好良く見えました。


ガラスの加工をしている時は炉を熱しているので工場からは「ゴーッ」という大きな音が聞こえました。ガラスの加工をしているタイミングを狙ってわざとボールを入れて見学したりしていました。

わざと入れていつのがバレて怒られはしましたが、「見たかったら見ていいよ」と言ってくれて見学させてくれたのは下町ならではでしょうか。そんなこともあり、小学三年生の時点での将来なりたい職業を書いた文集ではガラス職人になりたいと書いていました。


小学生中学年になると少しずつ友達も増えていきました。

近所で家を建てている場所からでた端材の木材をもらって木工をしてみたり、釘をマンホールの上で金づちで叩いて潰して砥石で仕上げて鋭利な刃物にしてみたり。それを半ズボンのポケットに入れたまま走り回ってポケット破いたり・・・それが半ズボン1枚や2枚ではなかったり・・・何度も破いて親に怒られたり・・・・・・


今考えると、身の回りでものづくりに触れる機会が多い環境だったと感じています。


小学生高学年になる頃には世間はバブルと呼ばれる好景気になり、父の経営していた「ミヨシ」は徐々に成長をしていきました。

私は経営者の息子ではありますが、先代である父には兄弟全員が「お前たちには会社を継がせない」と言われて育ってきました。これは最初から親に頼らず、社会に出たら自立しなさいという親心だったと考えています。そのため、家業を継ぐことは考えず将来何になりたいかを考えるようになりました。


そして中学、高校、大学と進学していくにつれ、興味は他のことに移りものづくりとは違う道を歩むようになっていきました。


つづく